石川の天神講



天神堂

写真は(とこなつ本舗大野屋さんのブログの写真を使わせていただきました http://blog.ohnoya-toko.com/article/42784292.html )

加賀百万石の美しい文化

江戸時代、加賀百万石と言われた加賀藩では、書、陶芸、染織といった伝統文化が武家社会に支えられて大きく花開きました。染色では加賀友禅。工芸では金沢箔(金箔)。漆器では山中漆器。陶芸では九谷焼。塗り物では輪島塗。現在でもその技術と芸術性が高く評価され、職人の技として伝承されています。茶の湯にいたっては、武士だけでなく、職人や町人までお茶の作法を身に着けていたと言います。

このような中で、加賀藩内の武家や大商家の間でも、天神講が広がっていきました。子どもの健やかな成長と学業の向上、立身出世を天神様に祈る気持ちは、いつの時代も同じです。菅原道真公が39歳の時に加賀権守に命じられ、金沢に赴任していたというご縁もありました。前田家は道真公にゆかりのあることを称し、家紋は天神様と同じ梅鉢。(前田家の家紋は正確には「剣梅鉢」)。そのためか、前田家の領地には天神社や天満宮が多く見られます。







昔の武家や大商家のことですから、掛け軸ではなく「天神堂」といって、お堂のような立派な御殿に天神様の坐像が鎮座したものが用意されました。今でも石川県の古いお宅にはごく少し残っているようですが、御殿は縦横高さそれぞれ1メートル程度、神棚よりももっと豪華で繊細な造りで、非常に高価なものであったと言われます。現在では、このような天神堂はもう作ることができないそうです。

一説によると、この「天神堂」があまりにも豪華すぎて、庶民に手の届くものではなかった。そのせいで、庶民の間には天神講があまり浸透しなかったといいます。福井や富山で、比較的安価に作られる天神様の掛け軸が数多く流通し、その結果、庶民の間に天神講と言う行事が大きく広まったのとは対照的です。

また別の説では、金沢市では戦後も昭和30年ころまではお正月に木彫りの天神様の像を床の間に飾る習慣があったとか。でも、現代になってどうして廃れてしまったのかはよく分かっていません。

同じ北陸地方でも石川県を挟んだ形で福井県と富山県には天神講が今でも残っています。男の子が生まれると天神様の掛軸を贈り、お正月にはその天神様の掛軸を床の間に飾り、天神講には尾頭つきの焼カレイ(富山では鯛のことも)をお供えして、子どもの健やかな成長と学業成就を祈ります。

現在、石川県内で「天神講」というと、菅原道真を祀るお祭りではなく、大聖寺の菅生石部神社の敷地祭(神社の夏祭り)のことを指します。夏越しの祓いで有名なお祭りです。

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